2009年7月23日木曜日

日本は、マスメディアが世論誘導…脅威『内からの侵食』が進行している

前駐米大使(プロ野球コミッショナー)・加藤良三

故ハーマン・カーン博士はかつて、民主主義国が直面する脅威は「外からの侵攻」と「内からの浸食」であると述べた。昨年アメリカから帰国して、日本ではその一つ、「内からの浸食」が進行しているなと思った。まず、日本人同士の連帯感、思いやりの心が希薄になった。それと反比例するかのように、「文句」と「他人批判」によって人を「萎縮」させる達人が多い。これにはマス・メディア、就中(なかんずく)テレビの責任が大きいと思う。

或るアメリカ人の表現を借りると、マス・メディアは最早「インフォメーション」の提供を使命とせず、「インフォテインメント」(汎娯楽化)の世界と化している。「ジャンク・フード」さながら、供給する側も、消費する側も、健康に悪いと知りつつお互いにやめられないでいる。ニュースですら、何についても中途半端な「実況放送」が多い。「事実報道」といいながら、画面でしゃべる人間が自分の主観らしきものを混入して「世論」を「誘導」し、それに快感をおぼえている。こういうマス・メディアの状況は驚きではないが、子供染みていると感ずる。

もう一つは、日本における情報管理の杜撰さである。
情報に関する限り、アメリカには中国の方が日本よりもまっとうで常識的に見えるのではないか。総じて日本には、自らの一挙手一投足を他の世界から「見られる」存在になったという認識が希薄である。「大勢順応」に馴れすぎて、国外からの視線を意識する感度が低い。安保・防衛政策の話になると必要以上に関係国の意向に気兼ねする。連帯感の希薄化、情報管理の杜撰さは、日本が戦後64年間戦争から「鎖国」してきたことと関係があると思う。

対照的なのは、アメリカだ。私はオバマ大統領の誕生は、アメリカが第一次大戦から今日まで一貫して主要な戦争に関与して来たことと無関係でないと思っている。戦争は最も苛酷な経験である。アメリカ国民は長きにわたり、その経験を共有せざるを得なかった。戦争体験の共有は間違いなく人種やジェンダーの垣根を低くした。
ひるがえって日本は、第二次大戦後「戦争との絶縁」により、世界でも稀な「成功物語」を創り出した。しかし、今、そのつけが、連帯感の欠如、情報への鈍感さという形で表れている。
同じ日本人同士でさえ思いやりの心が希薄になったのだから、同盟国をはじめ外の世界に対する連帯感、そして彼らと分かち合うべき情報への感受性が低下するのは無理もない。

在米勤務中、日本からの訪問客にアメリカにとって、日本と中国のどっちが重要なのかとたびたび訊かれた。そこは「アメリカの選択」というより、「日本の選択」だと私は思う。日米は同盟国だが米中は違う。であれば、日本はアメリカの同盟国であることを行動で示す。それだけの話である。

アメリカに向かう北朝鮮のミサイルを日本が迎撃出来るかという議論があるが、「同盟」の本質は「相互防衛」なのであり、これを無視した対応が同盟の基礎である信頼に影響を与えないはずがない。最近出席した日米関係に関するセミナーで、「ソフト・パワー」、「スマート・パワー」について、ひとしきり議論された。
米側のパネリストが強調したのは、「ソフト」「ハード」「スマート」のいずれにせよ、共通のエッセンスは「パワー」であり、「パワー」抜きの「ソフト」「スマート」には何ほどの意味もない。畢竟、これらすべては目標達成のための手段の違いにすぎないという点であった。

日本は「ソフト・パワー好き」だが、煎じ詰めるとその背景には、日本の政策実行によって日本人の人命喪失というリスクを冒すことだけは何が何でも避けねばならない。そういう願望・信仰が見え隠れする。人が自らの安全を守るには、平素から他者との連帯感を有し、情報を、さらにはリスクを共有していなければならない。国際社会においてもまったく同じである。今でも日本は、「ゼロ・リスク、ハイリターン」を志向しながら、それでいてアメリカにとって「中国よりも重要な国」、「かけがえのない同盟国日本」であり続けたいと願っている。

そこには深い矛盾があり、両者間の折り合いをどこかでつけねばならないことをほとんど意識していない。実はそれこそが避けて通ることのできない「日本の選択」だと、私は思うのである。(以上、一部略)

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