古来から小説と呼ばれる物は、北海道を足で歩き回り素材を集めて作った懐石料理に近い。
例えば小説の登場人物を食材とした場合、その食材一個にしてもどのように手に入ったか、登場する前にどんな過去があったか。食材一個だけでも背後にドラマが潜んでいる。
だからこそ出来上がった料理は見た目以上に奥深い物がある。
故に料理の中に不味い物、悪役等があったとしても、なぜ不味いのか、なぜ悪の道へ足を入れたのか、なぜ不味い物しかなかったのかというドラマが、奥行きがある。
一見すればネガティブな物もその背後を理解するとまたとない深い味わいを持つ存在へと変化する。
加えて料理を食べる時に作法という物がある。
これが為にその料理を充分に味わい尽くすにはある程度知識とや食べ慣れた、読み慣れた経験が必要となってくる。これらがある程度そろった人でないと本当に楽しむ事が出来ない。
逆に慣れれば慣れる程さらにその奥にある美味しさ、楽しさ、面白味を見つけ出す事が出来て更なる楽しみを得る事が出来る。
そして日本料理には、皿の模様や刺身における妻等、食べない/食べられないけれど料理を飾る様々な脇役、飾りが多数存在する。
確かに料理としては無駄な物だが、それがある事でより本来の料理が、より一層料理として、小説として引き立つ事が出来る。むしろある程度の眼力がある者であればそのその料理に必要な「不要な物」が分かる様になり、これら不要とされる物にすら味わいや奥行きを感じる事が出来るだろう。
これが古来から言われる小説の姿だと思われる。
続いてライトノベル。
これは小説が「小説として必要な物」だけを抽出して煮詰めた様な物であると考える。料理でいえばコンビニのお弁当に近い物と例えられる。
例えば幕の内弁当は、「幕の内」と名乗るのに必要な物だけを、無くてはならない物だけを最低限にそろえた弁当である。
或いはイカがあればイカ弁当の様に、エッセンスだけを抽出して、最低限のエッセンスだけをそろえた物である。
だからこそ無駄もないし、食べ安い。従来の小説に比べて作り安く、買い安い、読み安い。
だからこそ一般の人々に受け入れられ、これだけの市場を持ち得たと考えられる。
しかしながら結局それは抽出した物、或いは切り出した物なので、ここの食材に奥行きがない。
だから本来の小説と比べて浅い、重厚感や奥行きに欠ける小説が多いが事実だと思われる。
故に「ライト」ノベルと成ったのだと考えられる。
加えて嘆かわしいのはこのライトノベルというジャンルが生まれてしまった事で、小説家を志してもライトノベルで止まってしまう人々が多い事。
ライトノベルを書く事は小説家の手段であって目的ではない。
続いてケータイ小説だが、これは正直オママゴトと言ってよい。
オママゴトは「これを料理として扱う」という同意の下で成り立つお遊び。
ケータイ小説もこれと同じで読み手と書き手が「これを小説として扱う」事を同意した上でしか成り立たない存在ではないだろうか。
しかし私はここにケータイ小説の意味があると考える。
今はどうか知らないが、私の子供の頃など女の子達はこのオママゴトを通して将来の家事を覚え、準備をしていた。そして恐らく世に出た多くの料理人、小説家も最初はここから初めていたと思われる。そういう意味でケータイ小説の広がりはある意味で歓迎すべきなのだと考える。
が、ここで必要なのは
「これはオママゴトだ。大まかな形こそそろってはいるが本当の小説ではない」と事実を伝え、それでも志す者がいればその先へとけしかけ、また駄目な物は駄目と言い放つ事で導き育てる読者、或いは先駆者達だと思われる。
昨今のケータイ小説を取り囲む環境は、殆ど諸手を挙げてこれを歓迎している有様である。
特にマスコミという教養が皆無な連中が無意味に囃し立てる事で、本来働くべき育成作用が働かなくなってしまっている。
ただ褒めるだけでは成長等ない。
これでは肥やしのやり過ぎた植物と同じでまともに育つはずがない。間引いて、時に厳しい環境におく事で、本当に力のある物を成長させる必要がある。
ケータイ小説流行結構。しかしそこに優秀な導き手が無ければ腐って気分を害するだけ。
将来に大きな花を咲かせる可能性がある種が混じっている以上、花も咲かせられない輩には早期にその事実を伝えておくべきである。